ペットの安楽死について

日常・人生・思考

我が家の愛犬(チワワ)が今まさに苦しみの渦中にいる。

末期の心不全(心臓弁膜症)、プラス脾臓に腫瘍ありときている…

ほんの数か月前まで元気に走り回っていたのだが、

この1か月で急変した。病院に行ったら「末期」と告げられた次第。


小型犬であれば、比較的珍しくない病気・状況だとは思う。

わかる人はわかると思うが、まぁ「地獄」だ。

安楽死について

肺水腫になり、舌の色も変わり、呼吸器に問題がでてくるようなら、速やかにその苦しみを解き放ってやりたい。

「安楽死」

日本において、安楽死という選択は一般的ではないよう。

欧米だと、安楽死は比較的行われているどころか、

ドイツやベルギーだと大概の死因は安楽死とのこと。

治る見込みがない犬に無理な延命治療を行うなど、苦しみながら生き続けるよう強いることは、むしろ虐待。

このような考え方が多くなってきている模様。

良いか悪いかは別にして、参考になる話なのは間違いない。


ついこの間まで、

「日本も安楽死について認めるべき(人間の。助かる見込みもないのに、死ぬまで我慢を強いらせるのは可哀想」

などとあくまで他人事のように、たいして深く考えてはいなかったが、今は違う。

安楽死を選択する苦悩

「安楽死」を施してやれば、苦しみから解放させてやれる。

それは判っているが、そう簡単な話ではない。

自分の同意一つで「命」の炎を消す行為の重さ..

▼我が家の愛犬の現状 & 心臓弁膜症末期の症状例

毎日・毎晩・毎秒、見るたびに「ハァーハァーハァーハァーハァー」と全身呼吸している。

常にお座り状態で横にもなれず、四六時中ウロウロ…(特に夜は見てられない)

横になろうとしても、苦しさで鳴き声をあげながらまた立ち上がる。足は常にプルプル状態。

病気と利尿剤の影響で、水を飲んでは尿を垂れ流し、腹水の影響で、好きなオヤツもろくに食べられない..

愛犬がこのように地獄のような苦しみの中にいるにもかかわらず、
私はまだ「安楽死」を選べないでいる…

まだ呼吸に著しい問題は出ていない(肺水腫等)、血尿や失神、咳などもでていないというのもあるが、何より、まだ「動けている」事実。虫の息状態ではない。

好きな食べ物を見せると、こちらに向かい、くれくれと吠える(少ししか食べなくても、ホッとする)

インターフォンが鳴れば、玄関に向かいムダ吠えする(まだそんな元気があるのかと、ホッとしてしまう)。

夜になると、弱々しくはあるが、いつものように顔をペロペロなめてくる…(この時ほど愛しくてしょうがない瞬間はない)

いくら苦しそうであっても、「本能」が活発なうちは思い切りづらい…

ひたすら苦しんでいる ≒ 必至で生きようとしている

解釈は人それぞれ。

まだ頑張れそう…まだ死なせたくない…

境界線が見極めづらく、簡単に決断できないのが現実。

ペットの死生観

死の概念死の恐怖について、色々考えはあるとは思うが、確実に言えることは人間のそれとは違う。

死んだら自分の存在はどうなってしまうのだろう?
やり残した事がいっぱいあるのに…
もっと愛する人たちと遊びたい..

このような考えはないという事。

やり残したことはない

常にそういう状態である。
ということは、

「生」への執着も薄く、「死」に対する恐怖も限りなく少ない、と言えるのではなかろうか(そう自分が思いだけたいのかもしれないが)。

このことは「安楽死」を決断する上で、せめてもの救いになりそうではある。

安楽死のタイミングは非常に難しい

その日が近々確実に訪れることを考えると、気が重すぎる。

しかし自分は思い切るつもりだ。

「一秒でも永く生きていてほしい」

よくわかる。
がしかし、飼い主の「エゴ」になりかねない考えでもある。

自身の「亡くす悲しみ」を優先するのではなく、
「本当にこの子は幸せなのか?辛くないのか?」

という考えを優先するべき

やった!自分たちの努力で余命1ヶ月だったのが、3ヶ月も延命できた!
やることはやれた!良かった!

何も良くはない。
人間であれば、延命できた期間で「やり残し」を消化したり、有意義な時間を作ることもできるかもしれない。しかしペットは違う。ただただ苦しむ期間が伸ばされただけとも言える。
意味があるとすれば「精一杯やりつくしたという、飼い主の満足感」位。


私は逃げずに飼い主としての責任を果たしてやりたい。そう思っている。

もちろん「病気」にもよるだろう。山場を越えれば、奇跡を期待できる場合もある。
一概に、すぐ諦めて安楽死させてやるべきとは思わない。

シビアな話

安楽死を選ぶにあたっての「メリット」(嫌な言い方なのは承知)。

「お金」の話だ。

死に間際、病で苦しむ期間が長引くほどお金がかかる

・おいおい、自分の愛する家族が死ぬってんのに、ここぞでケチんのか?
・高齢だったら手術もしないだろうし、たかだか数万~数十万程度の出費だろ?なぜ払わない?
・やることやんないヤツにペットを飼う資格なんかない!!

このような意見が普通なのだと思う。
自分は少し違う。

自分の場合をみても、1か月程度で10万円近くのお金が吹き飛んでいる。
定期的な検査・投薬・病状に合わせた必要な処置(腹水を抜く等)etc..

動物病院は慈善事業じゃない。
お金を払わなければ、検査や治療を施してくれることはない。
経営をしている以上当然だ。

お金がないから、これ以上、検査も治療もしません。自然に任せます。

と飼い主が言えば、それまでだ。

動物愛護法で「適切な医療ケアを施すべし」とあるが、あくまで建前であり、罰則もなければ、誰が監視してるわけでもない。
動物病院の医師が、法的機関や動物保護団体に通報することもないだろう(通報したところで…)

日本のシステムがそうなっている以上、どうしようもない話である。

飼い主に全ての決断が委ねられていて、特段の問題がない限り、その決断は全て許されている。余程の事が無い限り、とがめられることはない。

ということだ。

安楽死における「西洋」「東洋」思想の違い

安楽死について「人間が負うべき当然責任(賛成派)」又は「人間のエゴ(反対派)」がいる。

この違いは西洋と東洋における思想の違いともいえそうだ。

キリスト教の思想に基けば

「あらゆる生き物に対する責任は、人間に託されている」

と考えられ、つまり安楽死は罪にならないと

一方、我々日本人の大半が信じる仏教の思想だとザックリいってしまえば

「不殺生=人間の手で殺しちゃいかん=自然死万歳!」

というもの。

この思想があるからこそ、日本では安楽死に対して、ネガティブなイメージが働きがちだと考えられる。

仏教×日本人の考えには「矛盾」がある

「自然死=自然の赴くまま」といっても、日本において、
大半の飼い主は、検査に検査を重ね、投薬まみれにし、医療ケアを施しまくる

もちろん「悪い」なんて事はないが、
「自然に沿ったもの=本来の仏教の思想」とは言い難い。

飼い主の感情論をもってして、延命治療に躍起になることが、仏教の思想において、正しい考えとは思えないのだ。

病気になれば、動物病院に行き、医療を施す=飼い主として当然やるべき使命

ケガ・病気に苦しむ動物を放置することは、いかなる飼い主にとっても苦痛を被るというのは理解できる。

しかし「病院一択」とばかりに、「そうじゃない人」を説教するのは、問題ありだ。

そんなの当たり前じゃん!病院連れてかないヤツは飼い主失格!

という意見はいささか乱暴すぎる。

徹底するのであれば、国が法律を変えるしかない。

事情があり、多頭飼いをしていれば、経済的な問題が発生する。
犬猫じゃない動物であれば?
身近に動物病院が無ければ?

結局は飼い主次第ということ。

最低限の飼育環境を整えてやり、何かあれば最低限の対症ケアを与え、責任と愛情をもってして最期の最期まで看取ってやる。

これさえ守っていれば十分。
病院での医療を望む人は勝手にすればいい。

しかし、そうでない人を、「無責任」だと罵倒するのは良くないということが言いたい。

西洋・東洋の思想における「ハイブリッド」な考え

本来、自然界における動物の死について…
犬猫がもし自然界にいれば、きっと死ぬ前は森のどこかに弱らせた身体を横たわらせ、自然な流れで静かに無に帰る。人に飼われるより寿命は短く、誰にも看取られないのが基本。純粋な「自然死」。

これは「不幸」ではない。自然界で本能に生きる動物は太古よりそんなもの。

一方、

人間に飼われた場合の死について…
自由環境は奪われる。しかし食料の確保ができ、雨風を凌げて、自然界で生きるより寿命は長く、飼い主から最低限の愛情が与えられ、孤独を凌げる。看取られて死ぬのが基本。

上記を踏まえれば、

最低限の飼育環境を整えてやり、ここぞで最低限の医療ケアを与え、本能で生きる彼らの自由を縛らずして、最期の最期まで看取ってやる…

これだけで飼い主の役目としては十分と言える。

怠惰!面倒だから病院に行きたくねぇだけだろ!金払いたくないだけだろ?

こういう短絡的、かつ感情的な意見に振り回されてはいけない。

本能で生きる動物は「病院に行きたい!」「助けて!」等とは決して思わない。

肝に銘じるべき。
飼い主の思い込みを優先して、強引な延命治療をやることは、あくまで自然に逆らっている行為と言える。

病院へ連れていくことが「絶対必要不可欠な行為」などでは決してない。

もちろん「治療」「手術」等を否定しているのではない。
しかし「あえてやらない」「経済的な事情でやらない」選択が許されていいという事が言いたいのだ。

上記の考えを人間の子供で例えるとしたら、世間からは、

「助かる命を見捨てるなんて!「自然の赴くままに」とか、狂気!非道!許されない!」

と罵られることだろう。

そりゃそうだ。

「ペット」は「ペット」であり、「ペット」はどこまでいっても「人」ではないのだから。

ペットに人間のような生存権はない。いざとなってもセーフティネットなどない。

全ては飼い主の判断にゆだねられている。

それでいいとおもう。

本来人間以外の医療ケアというものは、時代の変化に伴うオプション的なもの。強制されるものではない。そうであれば、飼い主は厳しく選定されなければならない。ペットビジネス等到底成り立たないだろう。

理性より本能が優先される動物こそ、「自然な死=快適な死」を与えるべき。延命治療の意味は「飼い主にしか無い」と言っていい。

ペットの気持ちなどわかるわけもないが、「自然な死=快適な死」を考慮すれば、「安楽死」が選択肢に入ることは必然。

仏教とキリスト教の思想のハイブリッドな考え。

非常に合理的だとおもうし、ペットロス対策にもなるとおもっている。

最低限の飼育環境を整えてやり、何かあれば最低限の対症ケアを与え、責任と愛情をもってして最期の最期まで看取ってやる。

これさえできていれば、自身納得してペットの旅立ちを見送れるはず。

ペットが亡くなった時、自分を責める人がいる。

お金が無くて手術できなかった。ごめんね
病院に行くのがもっと早かったら…
定期健診もっといっておけばよかった…
添加物たっぷりのおやつ与えすぎた…

まったくもって無意味な考え。自己否定妄想。

・本能で生きる動物に、手術も過度な治療(延命処置)も必要ない。自然界における自然死と思えばよい。
・病院に行こうが行かまいが、飼い主の使命感を満たすだけで、ペットの幸不幸に影響はない。
・定期健診は人間の理性的、かつ自己満足的な行為。行こうが行かまいが、どちらでも良い。
・不健康なおやつを喜んで食べたのはペット自身。多少寿命が削れたとして、ペットの幸不幸に影響はない。そもそも余程裕福で、意識がべらぼうに高い人でなければパーフェクトな食生活など到底無理。人間社会がそうであるように、その必要もない。

結局、言えるのは

「生きている時にどう接したか」

それだけだ。

楽しい時間を過ごし、愛情をもって最期の最期まで見送れたのなら、それでいいではないか。

自身を持とう。

補足(個人的な考え…)

◎病はいわば運命(最低限の飼育環境を提供したという前提で)。自然に流れを任せる考えは悪ではない。できるかぎりの対症療法を施してやり、最期まで愛情をもって看取ってやればそれで十分。病院に行きまくることだけが愛情ではない。

◎現実的な話、無いものは払えない。借金して困窮を強いられるほどの犠牲をするべきではない

◎現状、ペットに人間のような「生存権」はない。国保みたいなシステムもない。最悪の場合でもセーフティネットは働かない。すべては飼い主の決断に委ねられている。愛情をもって接してきたのであれば、いかなる決断を下そうが誰にとがめられることはない。文句を言うのであれば、国に言うほかない。

◎高額治療を施したとして、余命期間や自身の生活のことも考え、「合理的」に考えることは悪ではない。

◎「大金をかけて、最期の最期までできうるかぎりの治療を施した人はエライ」
「ろくにお金をかけず、早い段階で安楽死を選ぶ人は良くない。愛情不足」
こんな思考はまったくもって最悪。そのような「差別」があってはならない。
「お金をかける」=「愛情の深さ」ではない。

さいごに

人それぞれに異なった「生死感」が存在している。

「安楽死」に断固反対という人もいるだろう

なんにせよ、

「犬を亡くす悲しみ」ことより、
「本当にこの子は幸せなのか?辛くないのか?」
という考えを持つことが大切である。

さて、今も苦しみ続けている愛犬のそばにいってやるとするか…

ハァハァ苦しそうな状態で、「オヤツ缶」を開けると、重たい腹を持ち上げ、飛んでくるのだ。

本当に愛おしすぎて困る…

愛おしいからこそ、いざという時、責任をもって速やかに苦しみから解放させてやる一存だ。

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